どうでもよくない日記

とりとめない日記です。

読書記録 「子どものことを子どもにきく」(杉山亮)

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わたしが読んだ本も時々記録していこうと思う。特に子ども関連の本。

 

こちらは、3歳から10歳までの8年間、父親が自分の子どもにインタビューをしたその記録。

8年間インタビュイーを務めた隆くんは、おそらくわたしの一学年下。Jリーグとか、メンコが入ってるドラゴンボールのスナックとか、90年代なかばの小学生カルチャーがちょくちょく登場して懐かしい気持ちになった。

でもやっぱり今のわたしにとって一番興味深かったのは、最初期3歳〜5歳頃のインタビューだ。

 

ここがどこかわからなくて、今がいつかわからなくて、壁に書いてある字が読めなかったら、大人ならパニックだろう。

ところが隆は、その状況下でもニコニコしていられるのだ。

どうも、そういうことは一番大事なことではないらしい。(p.35)

 

父親であるインタビュアーとの会話は、言葉のやりとりそのものは成立していても、意味不明の部分が多くて(インタビュアー側の「わけわからん」という感想が何度も挟まれる)、本当にうちの子どもとの会話と同じだ…とおかしくなってしまう。

 

それが、4歳になると知識が増え、いくらか論理的になる。「自分の持ってる知識を総動員して真相に迫ろう」(p.45)とする。5歳の時は、大きなイベントで迷子になった経験について聞かれ、自分の考えたことや感情も含め、冷静に語ることができている。ものすごい急成長だ。

 

今まさにその狭間にあるわが子のことをしみじみ思う。

 

最近子どもがピアノの練習をしていて、気持ちが全然乗ってないな、というとき、グダ〜っと倒れ込んだり、わざと違うフレーズを弾いたり、鍵盤をガーンと叩いたりする。「どうした?もう嫌?」と聞いても、顔を横に振る。「じゃあもうちょっとやろうよ。どこをやりたい?」と聞いても黙りこんでしまう。

その度に対応に困って、

「どういう気持ちなのか、教えてくれないとわからないよ。どうしたいの?」と問い詰めるような形になってしまう。子どもはますます石のようになる。

 

「どうしたいの?」と言いながら、内心「自分の対応力のなさを棚に上げて、無茶なこと言ってるよな〜〜〜」と自責する気持ちと、「いやいやちゃんと言葉にして伝えるトレーニングは必要だろう」と自分を正当化したい気持ちとがせめぎ合う。

 

子どもの中にも、おそらくは、「練習つまらない、好きなことだけ弾きたいのに」とか「上手になりたいけど、なかなか上手にならなくてイライラする」とか「疲れた」とか、いろんな気持ちがいっぱいあるのだ。でもそれを自分で把握することも、言語化することも、子どもにとってはものすごく難しいと、わたしもよくわかっているのだ。

なのに、理屈がわかってて弁の立つ大人であるわたしが、一方的に責め立ててしまう。結局叱ることも励ますこともできず、言葉で丸め込むような形になってしまって…いや〜な雰囲気のままピアノの練習を終えてしまう。

楽しくピアノをやりたいだけのはずなのに何をやってるんだ…と毎日のように反省している。

 

子どもを「なにか正しいらしいこと」や「結論めいたもの」に導いてあげなければいけないような、この焦りは何なんだろう。正しいらしいことより(たとえわけがわからなくても)大切なことが、たくさんあるはずなのに。今言葉で表現できないでいるこの黙り込みを、その奥の膨大な感情を、そのまま受け止めてあげるには、どうしたらいいのかな。

 

ことばは一見誰でも自由にあやつれる。

それはあまりに当たりまえのことだから教育の外にあったし、だから重要視されてこなかった。

だが自分の思ったこと、感じたことをそのまま言えるようになることは悟ることに匹敵するほど大きな力だ。(p.220)

 

でもその一方で、失われていくものがある。

便利なことばのおかげで閉じてしまう感覚のようなもの。

雲のような光のようなものを体ごと丸々受けとめて、わからなくとも不安に思わない不思議な力。(p.221)

 

子どもと一緒に絵本を読む中で度々感じていた、「わからないものも丸ごと受けとめる感性」は、もしかしたらもうすぐ失われてしまうものなのかもしれない。

子どもは来月5歳になる。