「断片的なものの社会学」
人の気持ちに寄り添いたいと思うとき、
「わかるよ」と言うことがある。
「わかるよ」と言うとき、かすかな諦めを感じる。
どれだけ詳細に話を聞いても、
その人の経験したことは、あくまでもその人だけの経験であって、
わたしの経験にはならない。
その人が感じたことも、わたしが感じたことにはならない。
目の前にいるその人を余さず「わかる」ことなど、ないのだ。
それでも、同じものを共有したかのように、わかったふりをする。
わからないことを知っているのに、「わかるよ」と言う、その傲慢さ。
わたしとあなたはわかりあえない。
わかりあえないままくっついたり離れたりしながら暮らす。
それぞれ笑ったり泣いたり怒ったりしながら暮らす。
そしていつかすべては消える。
わからないということは、途方もない孤独と絶望だ。
この本はわからないことが多い。
いくつかの断片が並べられているけれど、
何も解説してはくれない。
ばらばらな断片の前で、わかろうとすることを諦める。
そしてこれがまさにわたしの生きている世界だと思う。
わからないことに気づき、
わからないことに耐える。
なんの意味も見出せなくても、
腑に落ちないまま生活は続く。
それでもたぶんやはりわたしは誰かに
「わかるよ」と言うのだと思う。
わかりたいという気持ちがあるからだ。
わたしはあなたをわかりたいと思う、それを伝えたい。
どこかで何かがつながる瞬間があることを信じたい。
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
朝日出版社第二編集部ブログ: 岸政彦「断片的なものの社会学」