どうでもよくない日記

とりとめない日記です。

「正しさ」について

「性格が悪い」って、妙な言い分だと思う。

小中学生の頃は毎日のように聞いたし言ったな、

「あの子は性格が悪い」。

 

ちょっとした意見の違いや、理解できないことも、相手の性格にすべて原因がある。

そういう風に言ってしまえば、以降その子を「性格が悪い子」として扱えばいいので、

楽なのだ。

わたしにとって不快なこと、理解不能なことが起きても、

それは相手の性格が悪いせいだから、悩む必要はない。

 

今はそんな風には思わなくなった。

「悪」の原因を相手の性格に求めなくなった。

もはや、世の中に「性格が悪い」人なんているのだろうか、とすら思う。

凶悪な犯罪者について、よく知る人にインタビューすると、

「普段はおとなしい良い人でした」という答えが返ってきた、

なんてよく聞く話だけれど。

 

人から評価される「性格」、あるいは自己評価による「性格」なんて、

実はさほど意味がないのではないか。

意味がないというか、その人が起こした事象に関連づけるべきものではないのではないか。

つまり、「性格が悪い」から、悪いことをするのではない。

 

皆それぞれ自分自身の価値観に従って、「正しく」生きようとしているのだと思う。

「悪」や「不快」はあくまでわたしがそのように受け取っただけの話であり、

行為者にとっては「正しさ」に則った行為であるかもしれないのだ。

もちろん社会的な「悪」はあって、それが罪に問われることは当然だろう。

しかしたとえば自分の思いつかないような言動をした人に対して、

「あいつは非常識なやつだ」「頭がおかしい」と、

個人の性質に結論を求めてしまうのは違和感がある。

そこには自分とは別の「正しさ」があっただけなのだ。

それぞれに違う環境で生きてきた過程で、それぞれの「正しさ」を育んできたはずだから。

「悪いことをしてやるぜ〜」と思って人を傷つけたり、罪を犯す人って、

まあ絶対いないとは言わないけれど、ほとんどいないんじゃないだろうか。

特撮ヒーローものの敵役だって、

「自分の思うようにすれば世界はより良くなる」というおのれの「正しさ」に従ったやつらばかりだ。

いくつもの「正しさ」があり、それは受け取る側によっては「悪」になる。

そして、「悪い人」がいるのではなく、「悪いことが起きた」と事象のみを捉える。

そう考えるようになった。

 

「学校」という小さな社会に生きている時には、外の広い世界のことをまだ知らず、

自分とその周辺せいぜい3メートルくらいの人々とのあいだで共有している「正しさ」を

絶対的なものだと思っていた。

だからそれを破る存在は「悪」だった。

しかし大人になって、いろんな価値観を知るにしたがって、

自分が大事に抱えてきた「正しさ」が絶対的なものであると思えなくなったのだ。

だから、「正しさ」を開け放して、自分も「正しさ」から解放されようと思った。

たったひとつの「正しさ」ではなく、あらゆる「正しさ」のなかに漂わせよう、と。

 

「悪」を罰する罰しないという問題とは別に、

個人の性質にすべての原因を求めるのは違うんじゃないか、

「正しさ」はたったひとつじゃないのだから、という話でした。