どうでもよくない日記

とりとめない日記です。

子どもと、子どもの頃のこと

最近子どもと接していて、自分の子どもの頃を思い出すようになった。私は就学前の記憶がほぼないのだが、それでも、子どもの言動を見ていて、時々パッと蘇る記憶がある。似たようなことが自分にもあったなと。

 

家族が自分にはわからない話題で盛り上がっていることが面白くなくて、気を引きたくて、意味もなく拗ねてみせたこと。それで結局「何拗ねてんの」と怒られたり、「またやってるわ」と無視されたりして、うまくいった試しがなかったこと。

歌が好きで、思いつく限りのオリジナルソングを歌い続けていたこと。自分の歌はものすごく素敵だと思っていたのに、それをある日、たまたまうちに来ていたお客さんに聞かれ、笑われ、恥ずかしくてたまらなくなって、ぱったりやめてしまったこと。

死ぬのが怖くて眠れず、夜中母の部屋に行ったら、ホットミルクとチョコレートを出してくれたこと。そのあとすぐに眠れたこと。

 

あの時はうまくことばにできなかったモヤモヤした気持ち、今ならわかる。寄り添ってあげられる。子どもはもうすぐ6歳。他者とのやりとりを通して社会を知り、喜怒哀楽を学び、今より広い世界へと一歩踏み込みつつあるんだなと思う。子どもも、当時の自分も、小さいながらに一生懸命生きててかわいいなあと思う。まとめてぎゅっと抱きしめてあげたいと思う。

 

赤ん坊から幼児へ、幼児から児童へ、と成長していく姿を間近で見るのは、すごく面白くて幸せなことだけど、いつもどこか寂しい。今は今だけのもので、すぐに消えていってしまうことを身に染みて知っているからだ。でも日々の流れの中に消えていくような小さな思い出が、不意に未来の自分をあたためることもあるのかもしれない。

 

ぼーっと

たまに日帰り温泉とか行くと、必ずマッサージチェアを利用するんだけど、あれって最近のはたいがい腕もマッサージしてくれる。しばらく両腕を突っ込んでモミモミされているのだが、数分も経つとなんだか落ち着かなくなって、片腕をぬいてスマホをいじりだす。

 

ぼーっとできないのだ。家でも、あー眠い眠いとか言いながらスマホをいじっている。寝ればいいのに。別に今いじらなくてもいいのに、いじってしまう。なぜなのか。

 

子どもといっしょに行動することが当たり前になると、常に脳はフル回転だ。危険のないよう、周囲に迷惑をかけないよう、飽きてグズグズ言い出さないよう、気を張っている。その上子どもはこちらお構いなしで意味のわかるようなわからないようなとりとめのないことをしゃべり続けるので、脳はヘロヘロである。

ヘロヘロの脳では、読書や映画などは理解が追いつかず、できない。ほんのわずか時間が空いても、スマホくらいしか使えない。それが癖になってしまっているのだと思う。もう子どもも結構大きいし、いいかげんこの癖は改めなくてはならない。

 

もう一点、ぼーっとしてると罪悪感がわいてくるのだ。スマホをいじってなくても、あっやべ、何もしてない!と思うと、急に窓拭きとかし始めてしまう。これも、子どもとべったり一緒にいると、できるときにさっさと用事を済ませておかなければならないので、あれもこれもやらねば、やっておかないとあとで大変、という気持ちだったのが、いつしか、何もやらない時間は罪、に変換されてしまったらしい。

 

だから人より大したことしてないのにいつも疲労感があるのだ。ぼーっとしたい。誰にも気をつかうことなく、頭空っぽにしたい。やっぱりそろそろTwitterのやめ時なのだろうか…。

絵本記録10

まだ読み聞かせはバリバリやっているけれど、最近は一人で黙々と読むことも増えた。園で読んだ本の内容も教えてくれる。自分で選んだ本を自分で読んで、自分で面白いことを発見して人に伝えられる。頼もしいな〜と思う。

図書館では絵本コーナーだけでなく、児童書コーナーにも行くようになった。好きなのは、おばけのアッチシリーズとか、こまったさんシリーズとか。恥ずかしながらわたし自身は全然読書しない子どもだったので、タイトルだけ聞いたことあるような?くらいの作品たちとこの歳になってちゃんと出会い、新鮮に楽しんでいる。今だって楽しめるから、あの頃読んでおけばよかったなとは別に思わないけど、子どもがなんの偏見も先入観も持たず、まっすぐな目で名作を楽しむ姿を見ると、ちょっとうらやましい。

子どもも、このままずっと本好きというわけではないかもしれない。ゲームだの友達づきあいだのYouTubeだの、楽しいことにこれからなんぼでも出会うだろうし。それでも、できるだけたくさん「本っていろんなこと書いてあって面白いな」と思える出会いがあればいいな。

 

 

「しごとば」鈴木のりたけ

www.ehonnavi.net

子どもがとても気に入って、全シリーズ読んでしまった。いろんな職業の仕事場と、1日の流れを紹介する絵本。教師や医師といった身近な職業から、サッカー選手、宇宙飛行士、漫画家、女優など憧れの職業、和菓子職人に厩務員といった普段なかなか触れることのない職業まで幅広く出てくる。社会科的な興味関心を広げてくれるし、親も知らないことだらけで勉強になる。絵の中にちょっとした遊び心やギャグが忍び込んでいて、見ているだけでも楽しい。幼児から小学校高学年くらいまで楽しめそう。

 

おとうさんといっしょに」(白石清春/いまきみち・西村繁男

www.fukuinkan.co.jp

体の不自由なおとうさんが、息子のあきくんを車椅子で保育園まで送る朝の話。作者の方の体験に基づいたお話とのこと。絵がとてもいい。背景と人物それぞれ違う人が描いている(調べたらこのお二人はご夫婦だった!)。生活感のある背景はにおいや音、温度まで伝わってきそうなリアルなあったかみがある。人物はくっきりしたタッチと色合いで描かれているのに、不思議と背景にマッチしている。地下道の坂道や、駅前の車通りの多さに苦労しながらも、楽しく登園する二人。あきくんが「ぼく、おかあさんとじてんしゃでいきたい」とぐずったり、吠える犬にびっくりしたお父さんを笑ったり、手で影絵をして遊んだり…親子のやりとりひとつひとつに共感してほっこり。車椅子に興味津々で駆け寄ってくる保育園の子どもたちがかわいい。

親子のバランス

しばらくブログを書かないでいるうちに、子どもは5歳、年長さんになった。

最近、手加減しなくてよくなったなと感じる。

カードゲームなんかも普通に負けちゃうし、走るとスピードがほぼ同じ(わたしが鈍足なのもある)、テレビも親の好きなのつけてても平気、何なら一緒に楽しんでくれる(以前は嫌がって即消された)。

とにかく話の通じる一個人という感じが日に日に強くなる。幼児期の終わりが近づいているのを感じる。

 

子どもが生まれてからこの方、ずっと意識している、というか意識せざるを得ないことがあって、それは親と子の力関係のバランスだ。

子は生まれた時点で、親よりも明らかに弱い。子は何も持たずに生まれてくるから当たり前だ。腕力も知識もお金も何もかも親には敵わない。それを意識していないと、小さい命は繊細すぎて、壊してしまいかねない。乳児期のことを思い出すと、とにかくいつもハラハラしていた。わたしの行動ひとつでこの人の命が左右されかねないのだと。

 

何もかも親がしてやらないといけない時期を過ぎて、自分で歩き、自分で食べ、排泄し、とできるようになるうちに、そのハラハラは無くなっていく。それと同時に、子どもを信頼して、任せなくてはいけない場面も出てくる。成長とともに力関係のバランスは変わっていくのだなと実感している。もっと大きくなっていけば、この力関係は逆転するわけで、いつかその日が来ることを理解した上で子どもとつきあっていかないといけないなと思う。

 

力関係のバランスということでいうと、現時点で難しいのが、子どもに決めさせるということについて。

ランドセルだの習い事だの、本人の意志を確認して何か大事なことを決めなければいけない時、いつもモヤモヤしたものが残る。もう5歳、自分で決めるという経験はとても大事なんだと思う。それはたしかにそう。でも待てよ、まだ5歳の子どもに責任を負わせてしまっていいのだろうか?

「自分で決めたんだから大事にしてね」とか、つい言っちゃいがちなんだけど、そもそも、知識も経験も圧倒的に足りない子どもに決めさせるって、どうなんだ?大人の責任の放棄ではないか?

なんか口が達者になってきたから、よく理解してるような気がするけど、全然そんなことない。「紫が好きだから」とか「お友だちとおそろいだから」くらいしか判断材料がない。

選んだその先でどうなるか想像してから決めろなんて無理。そもそも経験も知識もないのだから想像しようがない。それで「やっぱりやだ〜」と言いはじめたとしても、何で責めることができようか。

もちろんお金を出す側として少なからず腹は立つものの、「だからよく考えて選べって言ったでしょ!」「自分で決めたんだから我慢しろ!」などと言って責め立てるのは、あまりに大人の勝手でかわいそうだよなと思ってしまう。

(いやだって、親の自分だって、ほんとによく考えて買い物してるのかって話ですよ…)

 

もちろん、子どもに決定権を渡すなと言ってるわけではない。ランドセルはまだ買ってないけど、子どもの決めたものにするつもりだ。「やっぱりやだ〜」と言い出したら…どうするかなあ。「自分で決めたんだから」は、言いたくなっちゃうけど我慢して、なんとか説得するかなあ。結局は、一個人として子どもの意志を尊重しつつも、まだ幼い部分のサポートを最大限やっていく、というのが今の親としての役割なのかな。親子関係って常に変化していってて、難しくも面白いなあと思う。

 

そもそもランドセルってなんで必要なのか?選択肢多すぎない?なんでこんな早くから決めさせるん?つまりはラン活めんどくさいよ〜という愚痴でした。

読書記録 「子どものことを子どもにきく」(杉山亮)

www.chikumashobo.co.jp

わたしが読んだ本も時々記録していこうと思う。特に子ども関連の本。

 

こちらは、3歳から10歳までの8年間、父親が自分の子どもにインタビューをしたその記録。

8年間インタビュイーを務めた隆くんは、おそらくわたしの一学年下。Jリーグとか、メンコが入ってるドラゴンボールのスナックとか、90年代なかばの小学生カルチャーがちょくちょく登場して懐かしい気持ちになった。

でもやっぱり今のわたしにとって一番興味深かったのは、最初期3歳〜5歳頃のインタビューだ。

 

ここがどこかわからなくて、今がいつかわからなくて、壁に書いてある字が読めなかったら、大人ならパニックだろう。

ところが隆は、その状況下でもニコニコしていられるのだ。

どうも、そういうことは一番大事なことではないらしい。(p.35)

 

父親であるインタビュアーとの会話は、言葉のやりとりそのものは成立していても、意味不明の部分が多くて(インタビュアー側の「わけわからん」という感想が何度も挟まれる)、本当にうちの子どもとの会話と同じだ…とおかしくなってしまう。

 

それが、4歳になると知識が増え、いくらか論理的になる。「自分の持ってる知識を総動員して真相に迫ろう」(p.45)とする。5歳の時は、大きなイベントで迷子になった経験について聞かれ、自分の考えたことや感情も含め、冷静に語ることができている。ものすごい急成長だ。

 

今まさにその狭間にあるわが子のことをしみじみ思う。

 

最近子どもがピアノの練習をしていて、気持ちが全然乗ってないな、というとき、グダ〜っと倒れ込んだり、わざと違うフレーズを弾いたり、鍵盤をガーンと叩いたりする。「どうした?もう嫌?」と聞いても、顔を横に振る。「じゃあもうちょっとやろうよ。どこをやりたい?」と聞いても黙りこんでしまう。

その度に対応に困って、

「どういう気持ちなのか、教えてくれないとわからないよ。どうしたいの?」と問い詰めるような形になってしまう。子どもはますます石のようになる。

 

「どうしたいの?」と言いながら、内心「自分の対応力のなさを棚に上げて、無茶なこと言ってるよな〜〜〜」と自責する気持ちと、「いやいやちゃんと言葉にして伝えるトレーニングは必要だろう」と自分を正当化したい気持ちとがせめぎ合う。

 

子どもの中にも、おそらくは、「練習つまらない、好きなことだけ弾きたいのに」とか「上手になりたいけど、なかなか上手にならなくてイライラする」とか「疲れた」とか、いろんな気持ちがいっぱいあるのだ。でもそれを自分で把握することも、言語化することも、子どもにとってはものすごく難しいと、わたしもよくわかっているのだ。

なのに、理屈がわかってて弁の立つ大人であるわたしが、一方的に責め立ててしまう。結局叱ることも励ますこともできず、言葉で丸め込むような形になってしまって…いや〜な雰囲気のままピアノの練習を終えてしまう。

楽しくピアノをやりたいだけのはずなのに何をやってるんだ…と毎日のように反省している。

 

子どもを「なにか正しいらしいこと」や「結論めいたもの」に導いてあげなければいけないような、この焦りは何なんだろう。正しいらしいことより(たとえわけがわからなくても)大切なことが、たくさんあるはずなのに。今言葉で表現できないでいるこの黙り込みを、その奥の膨大な感情を、そのまま受け止めてあげるには、どうしたらいいのかな。

 

ことばは一見誰でも自由にあやつれる。

それはあまりに当たりまえのことだから教育の外にあったし、だから重要視されてこなかった。

だが自分の思ったこと、感じたことをそのまま言えるようになることは悟ることに匹敵するほど大きな力だ。(p.220)

 

でもその一方で、失われていくものがある。

便利なことばのおかげで閉じてしまう感覚のようなもの。

雲のような光のようなものを体ごと丸々受けとめて、わからなくとも不安に思わない不思議な力。(p.221)

 

子どもと一緒に絵本を読む中で度々感じていた、「わからないものも丸ごと受けとめる感性」は、もしかしたらもうすぐ失われてしまうものなのかもしれない。

子どもは来月5歳になる。

 

絵本記録9

「エンソくん きしゃにのる」(スズキコージ)
「ほげたえき」からおじいちゃんの待つ終点まで、汽車に乗って初めての一人旅。駅の人混み、流れていく街の景色、暗いトンネルの恐ろしさ…。お話じたいはとてもシンプル。でも描き込まれた独特の世界観に夢中になってしまう。

 

ここは西洋?東洋?ほげた駅の駅員さんの顔が異様に怖いのはなに?エンソくんと乗り合わせたおばさんの手はなんで鉤爪?エンソくんのおじいちゃんが乗ってきた動物は一体何?

 

わからないことだらけ。見れば見るほど、発見がある。でもそれが子どもにはとても面白かったみたいで、繰り返し読んだ。わたしは絵本に出会うまで、こういう面白さには気づけなかった。

 

前に「とらのゆめ」の時にも書いたけれど、大人にとって「わからない」ことは不安や恐怖につながりやすい。でも子どもはわからなくても笑っている。鷹揚である。

 

うちの子どもは最近自分で絵本を描くようになった。当然ながら話は破綻しているし無茶苦茶なんだけど、自分の面白いと思うものを力一杯描く、というパワーをひしひしと感じる。お前にこの世界を受け止める度量があるのかと問われているような気にさえなってくる。「わかる」あるいは「わからせる」ことを目的にしてしまったら、失われるものがきっとたくさんあるのだろう。

プリキュアのエンドカードに感動した

突然のプリキュア話失礼します。

アニメのエンディング、次回予告が終わった後「またみてね!」のひとことと共に放送時間の一番最後に映る一枚絵、あれをエンドカードというそうです。現在放送中のデリシャスパーティ♡プリキュアでは新しいプリキュアが登場するお話のときは必ずエンドカードが出てくるのですが、その絵に感動して胸打たれたという話です。

 

これまで和実ゆい=キュアプレシャス、芙羽ここね=キュアスパイシー、華満らん=キュアヤムヤム、(プリキュアではないが)品田拓海=ブラックペッパー、菓彩あまね=キュアフィナーレの5人のエンドカードが登場した。どれも変身前の姿と変身後の姿を並べた一枚絵だ。よかったら「デパプリ エンドカード」などで検索して見てみてほしい。

 

拓海=ブラックペッパー以外の4人(8人)は、パートナーであるエナジー妖精(あまね=フィナーレの場合は変身時のアイテム、ハートフルーツペンダント)を間に背中合わせになったり、顔を寄せあったり、まるで鏡のように、変身前と後の姿が並ぶのだが、その表情が違う。

変身前の姿のときは驚いてたり戸惑ってたりどこか不安げだったりするのに、プリキュアに変身した姿では迷いのない笑顔になってるのがすごくいいのだ。自分の中からプリキュアという強いキャラクターが生まれたことに驚き戸惑っているようにも見えるし、不安な自分を変身した自分が励ましているようにも見える。2人は同一人物だけど、まるで別々の人格を持つ親友同士のように寄り添い支え合っている。その絵を見て初めて、プリキュアに変身することがどういうことか理解できた気がした。

 

ヒーロー*1とは、他人を助けるのと同時に、自分自身をも支え助けるものなのだ!

 

目から鱗の感覚だった。逆に言えば、強いからヒーローになれるのではなく、弱くても、不安でも、あなたを支える力は既にあなた自身の中にある、あなたが自分の弱さや不安をまるごと受け止めて、自分の力を信じることができればきっと大丈夫、あなたは強くなれる!というメッセージなのだと…。

 

最新回で菓彩あまねは、「私はもう目をそらさない。自分の過去からも、自分の願いからも。そして、お前たちの悪事からも!」というセリフの後初めてキュアフィナーレに変身した。まさに自分の弱さを受け止め、自分と向き合うことで初めて強くなれたのだ。

(あまね=フィナーレのエンドカードはほかの3人のプリキュアたちと比べ、なんだか大人っぽい。憂いを帯びたあまね、ハンサムでジェントルなフィナーレ、向かい合う姿は恋人同士のようにも見えてドキドキしてしまう。)

 

ちなみに拓海=ブラックペッパーは、唯一支え合う形のエンドカードでなく、ブラックペッパーを少し離れて横目で見る拓海、という図になっている。それは彼の戦う動機がただゆい=プレシャスを助けたいというところにあるからで、なぜ自分がブラックペッパーでなければならないのか?自分にとってのブラックペッパーとは?という問いに答えが出ていないからだと思う。変身に照れてる描写もあったりして、絵の中にも「なんだこいつ?」くらいの距離感がある。おそらく今後プリキュアたちとの共闘を重ね、父親の過去を知ることなどを通して、彼自身ブラックペッパーとしてのアイデンティティを確立していくのだろう(と勝手に思っている…)。

 

突然のプリキュア話失礼しました。プリキュアにもアニメにも変身ものにも全く詳しくないのでおかしいところも多々あるかと思いますが…

*1:初代プリキュアふたりはプリキュア」HPでは、「女の子が主人公のヒーローもの」「「ヒロインもの」ではなく「ヒーローもの」」という記述がある。すごく興味深い。このことは改めて考える機会を持ちたい。

https://www.toei-anim.co.jp/tv/f_precure/story.html